第34回 下鴨神社 糺の森 蛍火の茶会 ~ 十二単衣の着付(解説付)と王朝女人の雅楽舞(浦安の舞)~ 神服殿にて 2024.6.8 PM8:00

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  • Опубликовано: 6 сен 2024
  • 令和6年6月8日は下鴨神社にて、第34回 下鴨神社 糺の森 蛍火の茶会が開催されました。非常に多くの人でにぎわいました。
    本映像は、はじめに2、3秒間ほど実際に蛍が飛んでいる姿があります。蛍火の茶会が終了し、本日の下鴨神社が閉門するのは午後9時となり、その頃に参道に流れる瀬見の小川にて撮影しました。
    蛍火の茶会に際して、重要文化財の神服殿にて、京都古楽会の奉仕による雅楽の演奏や王朝女人の雅楽舞、それから下鴨神社専属の錦綾会・錦綾子社中の奉仕による箏の演奏が催され、立ち見が多く出るほどの賑わいとなりました。
    撮影者は糺の森保存会の会員のため、今年は橘殿にて裏千家のメンバーによるお茶の接待を受けました。
    神職の話によると、蛍火の茶会に関するマスコミからの質問があったそうで、蛍火の茶会とは何かを知らない方が多いため、以下にて説明しておきます。
    蛍火の茶会は裏千家家元の千 玄室氏が糺の森保存会の理事長でもあるため、平成3年(1991年)に始まり、毎年この時期に下鴨神社境内の細殿と橘殿にて実施されております。
    <蛍火の茶会に至る歴史的流れ>
     昔、自然豊かな糺の森には神宮寺跡の前には竜ガ池があり、御手洗川、泉川、瀬見の小川に数多くのゲンジボタルがいました。
     そもそも成虫したゲンジボタルは繁殖活動にオスがメスを惹きつけるために光り続けるだけでいっさいの食事をしません。
     ゲンジボタルが増える方法は、動物食である幼虫のエサが唯一カワニナ(巻貝)だけとなるため、カワニナを増やすことが必須となります。
    カワニナはとてもきれいな水の中にしか棲みません。
     歌人の小林一茶が30歳のときに下鴨神社を訪れて、糺の森に流れる泉川の沿岸に立ち並ぶ50軒の茶店を眺め歩き、界隈に飛び交う無数の蛍の光に感動してこのような俳句をつくりました。
    「盃に 散れや糺の とぶほたる」
     地区の古老の話によると、昔は糺の森のいたるところで蛍が飛んでいたそうです。
     ところが明治4年(1871年)の社寺上知令により、糺の森の一部を含む境内の大半が上知の対象となり、環境が変化してゆきます。
     大正時代には泉川の上流に農業廃水が流れ込み、昭和時代初期には都市計画事業により泉川の川幅がせまくなりました。
    さらに高野川の護岸工事の影響により各河川の水量が減りました。
     また、昭和9年(1934年)の室戸台風では、糺の森の樹木の大半が倒木し、昭和10年(1935年)の京都大水害では、泉川が氾濫し決壊しました。
     これらによる自然災害の影響もあり、生態系に変化が現れたとされています。
     戦後は急激な都市化が進んだ影響で、家庭排水やゴミが糺の森や河川に放棄され、荒廃し、生息していたリスの姿が消えました。
     さらに、水源地付近に宅地が造成され瀬見の小川と竜ガ池が枯渇し、蛍の姿を見かけることもなくなりました。
     そこで明治時代に糺の森の保全管理を目的として創設された神苑保存会、大正時代の神苑保勝会、昭和27年(1952年)に再編された糺の森保勝会の流れを継承し、昭和56年(1981年)に糺の森顕彰会(現 糺の森財団)が設立されました。
    糺の森保全のため環境整備事業に着手し、ニレ科の樹木の植林活動や氏子の皆さまと清掃活動を行っています。
     
    それから、糺の森に清流をとり戻すために、瀬見の小川や江戸時代初期に絶えたとみられる奈良の小川復元作業を行った結果、少しづつ糺の森の環境が回復し、蛍も戻ってきました。
     そして、平成3年(1991年)から始まった蛍火の茶会は当財団の千 玄室理事長(裏千家家元)のご協賛により、毎年6月上旬に開催されております。
    明治時代初頭まで、糺の森で乱舞していた蛍を想いながら、数々の伝統芸能をごらんください。
    「さりともと にごりなき世を 頼むかな ながれ絶えせぬ みたらしの水」(鴨長明)

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